IKIGAI

孤高の哲学について あるいは「幸せの翼が羽ばたく時」

永遠のゼロ

ラストシーン

 

主人公による特攻が成功したと思わせるような描写で終わるのだが、この描写は必要なのだろうか?

 

主人公の最期の姿を見た者は、誰もいないことになっているのに何故これを描くのか?

 

最後の最後で不愉快な気分にさせられる。

 

 

どうしても 勇ましい姿で終わりたいのだろうか。

残念である。

ポリローグ

《ポリローグ》というのは新語です。これによって私が示したいと思ったのは、私たちを成り立たせている「ロゴス」が、ひとつの全体あるいは総体という首尾一貫性をもってはおらず、複数の論理(ロゴス)へと細分されているということ、それら複数の論理が、私たち一人一人を突き抜け、現代の世界を複数の記号象徴的実践で満たしているということです。実際、夢を見る《私》、赤ん坊のことばを想像する《私》、ヘーゲルを読む《私》、ジオットやアルトーを解読する《私》―――これら複数の《私》は、同じ私ではなく、同じことばを話してはおらず、同じ時間を生きてはいません。このような作業の一つ一つのなかに、さまざまな論理を呼び集めているのです。したがって、考える《私》という推定された首尾一貫性は、もろもろの意味生成過程から成るモザイクに取って代わられ、それによって私は意識の境界まで、フロイトが「無意識」と呼んだ別の舞台へと、導かれてゆくのです。

ジュリア・クリステヴァ著『ポリローグ』(白水社、1986年)3ページより
 

表現したいこと

今この瞬間に自分が悩んだことや、揺さぶられる感情を吐き出したい。

そうしなければ、苦しくてたまらないからだ。


人はいろいろな目的で表現する。
わかって欲しい自分がいる。

そんな、どうでもいい理由を考えてみても仕方がない。


いまこうして書いていても苦しくてたまらない。

悶え続ける。
ーー死がこの苦しみを解き放つまで。

ああ 死が怖い。
と思うと同時に早く死にたいとも思う。

カタルシス

こらえきれず、堰を切ったように溢れ出す涙

泣くことで解放される快感

怖くてたまらないことから
逃げることもある。

勇気がない。
そう見下されるなら、そうかもしれない。

人は悲しいから泣きたいのだろうか。

ただ泣きたい。
そういうこともある。

どうしようもない
理不尽
不条理

何か、嫌なもの 気持ち悪いもの。

ああ、気持ち悪い。

「紅白とスター・ウォーズ考」

大みそかに紅白歌合戦をぼんやりと眺めていたとき、少し前にこれとまったく同じような違和感を覚えたことを思い出した。それは新宿のシネマコンプレックスで「スター・ウォーズ フォースの覚醒」を観賞したときだ。

 私が感じた両者に共通する違和感とは要するに、作品の良しあしとは別問題として、ポップカルチャーログイン前の続きメジャーシーン、特に映像文化については、20世紀後半の思い出を温めるコミュニケーションが支配的に、それも全世界規模でなってきた、という実感だ。

 気がつけば紅白は一年の締めくくりに、その年に活躍した音楽家がヒットソングを披露する場ではなく、戦後大衆音楽史のダイジェスト的なセットリストを組んで、老若男女がノスタルジーを共有する場に変貌(へんぼう)し、近藤真彦松田聖子が「トリ」を飾っていた。そしてディズニーに権利が買われることでシリーズが再開したスター・ウォーズは、第1作を手堅く現代風にリメイクしながら、初期シリーズの登場人物のその後の姿を盛り込むことで、ディズニーらしいファミリー向け映画に生まれ変わっていた。

    *

 おそらく私が生きているうちに、劇映画やアニメといった映像文化のメジャーシーンは20世紀、とくに戦後のタイトルを古典としたオペラのようなものが占めていく可能性が高い。20世紀後半に先進国に生まれたベビーブーマー・ジュニア世代とその子供世代を中心に、エンターテインメントの需要の中心は確実にこちらに傾くはずだ。随分と前から、ハリウッド興行収入ランキングでは、20世紀後半を彩った有名大作の続編とリメイクが大きな位置を占めている。

 考えてみれば、そもそも人々が映像で描かれた物語を最大の共通体験とする社会自体が戦後に決定的に拡大したもので、たった数十年の歴史しかもたない。そしていま、こうした世代の共通体験としての映像文化そのものが、いわば熟年期にさしかかっている。このとき、紅白からスター・ウォーズまで、社会がメジャーシーンとしての映像文化に要求するのは、ユースカルチャーとして時代の感性を代表することではなく、むしろ自身の歴史を参照しながら、その観客の記憶を温め直すことなのだ。

    *

 おそらく20世紀的な「映像」文化がかつてのような社会的機能を取り戻すことはないだろう。私たちは、マスメディアが社会を構成する時代、そして、その王者として君臨した映像文化がもっとも果敢に時代の感性を代表し、世代の共通体験となる神話を生んできた時代に「たまたま」生きてきた。しかし、その時代はいま、ゆっくり終わろうとしている。それは(個人的には少し寂しいことだが)、一つの表現のジャンルが成熟し、社会の変化に応じてその役割を変貌させたにすぎない。

 その上で二つの問題がいま、問われている。一つは、この数十年の「流行」の中で育まれた想像力とノウハウから私たちが持ち帰るべきものは何か、という問いだ。もう一つは、「映像の世紀」が終わったいま、「映像」だからこそできることは何か、という問いだ。この二つの問いに答えることが、「映像の世代」とすら言える現役世代の文化的な課題になるはずだ。

 (評論家)

 

 ここで彼は重要な問いを二つ最後に提出している。

一つは

この数十年の「流行」の中で育まれた想像力とノウハウから私たちが持ち帰るべきものは何か 

 もう一つは

 映像の世紀」が終わったいま、「映像」だからこそできることは何か

 私もこの二つの「答え」を探していこう。